「私たちはキリストに向かって 成長していきます。(エフェソ4:15)」
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4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
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このエフェソの信徒への手紙は、復活したイエスさまと出会って使徒(キリスト者)となったパウロが、牢獄からエフェソの教会の人たちに書いた手紙です。
一般社会と違って、教会(キリスト教)の中では、それぞれ個人が持っている能力だけで、その人を判断しません。「あの人は~ができるからどうだ」とか、「あの人は、この人より~の点で優れているからどうだ」ということが問題にはならないんです。
では、教会の人たちや、幼稚園の先生たちは、その人達や子ども達の何を見ているのでしょうか?
私たちが焦点を合わせているのは、その人の「能力」ではなく、「存在」です。
もし「能力」だけを見ているのであれば、それは城之橋幼稚園ではありませんし、本当の意味での「キリスト教保育」でもないのかもしれません。
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補う合うことによってしっかりと組み合わされて、結び合わされて・・・」と、パウロは言いました。それまでパラバラだった人たちが、それぞれの「存在」を認め合って、組み合わせられていくとき、そこには大きな力が生まれ、成長してきます。
よく、「城之橋の子ども達は、言葉遣いが丁寧だ」とか、「城之橋の子ども達は、いい子が多い」という声を聞きますが、それは何も、そういう子ども達になるように、縛りつけて「教育(調教?)」しているわけではありません。
それぞれの「個」を結び合わせ、成長させていくのは、人それぞれがもっている「愛」です。
「能力」とは、そんな「愛」が結びついて、補い合う中で培われ、成長していくものではないでしょうか?
子ども達だけではなく、私たち大人も、「愛」をもって人と結びつき、足らないところを補いあいながら成長していく者でありたいと願います。
2月も神さまに祝され、恵まれた時となるよう祈ります。
Urakami
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