当然ですが、教会(キリスト教)の中にも結構あります。
先日、次のような、キリスト教独特な言葉のひとつに気が付きました。
「神さまにひっぱられる」というものです。
教会では、普段何気なく出てくる言葉ですが、考えてみれば不思議です。
神さまはどのように、私たちを引っ張って、どこに連れて行こうとしているのでしょうか?
先日、私たちの教友であった姉妹の葬儀式が教会で行われました。偶然にも、彼女の亡くなったご主人との結婚記念日でした。
普通の感覚であれば、「旦那さんが迎えに来たんやろか」って言葉が出てきます。
しかし私の中にあった言葉は、「あぁ、神さまに引っ張って行かれたんかな」というものでした。
それは、彼女がよく「神さまに引っ張られている」という、話しをされていたからです。
「私は不信仰で、長い人生の間に、教会に行かなくなった時もあったし、必要ないと思った時もあったけど、気が付いたらまた教会に来ていた。不思議。
これは、神さまが、私を細い糸で、“グィグィ”引っ張っているにいがいない。」
このお話しを伺っている時にも、私はなぜか納得してしまいました。
「日曜日、なぜ自分が教会にいるのか? 他にも、今日中にやらなければならないことが山積みなのに。不思議と教会に足が向いてしまう。」
私も、そんな体験をしたことがあるからです。
苦しい時、悲しい時、幸せな時、喜びの時、どんな時にも、神さまが細い糸で、しっかりと私を“グイグイ”引っ張ってくれている。そんな安心感を、彼女はいつも感じていました。
もしかしたら、キリスト者(クリスチャン)っていうのも、自分からなりたいと思ってなるものではないのかもしれませんね。
向こうから私のことを“グィグィ”引っ張ってくれる存在に気づくこと、私たちも神さまのそんな存在を感じなら歩んでいきたいと思います。
“Verkündigung an Maria”1500年ごろの写本 |
Urakami
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