2011-02-26

神さまの吸引力

 どこの世界も同じように、ある一定の場所やグループには、その共同体に属している人だけに理解できる独特な表現があります。(いわゆる専門用語ってやつですね♪)
当然ですが、教会(キリスト教)の中にも結構あります。
 先日、次のような、キリスト教独特な言葉のひとつに気が付きました。
「神さまにひっぱられる」というものです。
 教会では、普段何気なく出てくる言葉ですが、考えてみれば不思議です。
神さまはどのように、私たちを引っ張って、どこに連れて行こうとしているのでしょうか?


 先日、私たちの教友であった姉妹の葬儀式が教会で行われました。偶然にも、彼女の亡くなったご主人との結婚記念日でした。
 普通の感覚であれば、「旦那さんが迎えに来たんやろか」って言葉が出てきます。
しかし私の中にあった言葉は、「あぁ、神さまに引っ張って行かれたんかな」というものでした。
それは、彼女がよく「神さまに引っ張られている」という、話しをされていたからです。
 「私は不信仰で、長い人生の間に、教会に行かなくなった時もあったし、必要ないと思った時もあったけど、気が付いたらまた教会に来ていた。不思議。
これは、神さまが、私を細い糸で、“グィグィ”引っ張っているにいがいない。」
このお話しを伺っている時にも、私はなぜか納得してしまいました。
 「日曜日、なぜ自分が教会にいるのか? 他にも、今日中にやらなければならないことが山積みなのに。不思議と教会に足が向いてしまう。」
私も、そんな体験をしたことがあるからです。


 苦しい時、悲しい時、幸せな時、喜びの時、どんな時にも、神さまが細い糸で、しっかりと私を“グイグイ”引っ張ってくれている。そんな安心感を、彼女はいつも感じていました。
もしかしたら、キリスト者(クリスチャン)っていうのも、自分からなりたいと思ってなるものではないのかもしれませんね。
 向こうから私のことを“グィグィ”引っ張ってくれる存在に気づくこと、私たちも神さまのそんな存在を感じなら歩んでいきたいと思います。


Verkündigung an Maria”1500年ごろの写本
ある意味マリアさまも、神さまに“グィグィ”引っ張られていった方ですね。




Urakami

2011-02-11

個人の祈り

今日は、毎週日曜日に発行している<日々の想い>をご紹介します。
*<日々の想い>は、城之橋教会の何代か前の牧師が始めた、教会のコラムです。真面目なものから日常の何気ない出来事や趣味の話まで、幅広く書いています。
今回は、少し真面目なものを持ってきました♪

-------------------------------

私たちは一日の中で、どれだけ個人の祈りの時を持っているのでしょうか?
誰にも邪魔されず、個人と神との対話の時間をとっているかによって、その日の心の具合が大きく変わってきます。
昔、忙しくて祈ることを忘れていた事がありました。
忙しいと言っても、教会の行事や、神学論文の作成、聖歌隊の指導などです。
いつも頭の中は、教会のことや神さまのこと、礼拝のことでいっぱいでした。
傍から見れば、とても教会的な人だったかもしれません。しかし、気が付けば、いつも眉間にしわがよっていました。
そして徐々に、心も、働き自体も、つぎ込んだ時間に反比例するかのように乏しくなっていました。


神の言葉を聞いて祈る時、神のまなざしに気がつきます。
今日一日、神の前でどのように過ごすのか?
その思いが出てくる時、その日一日の時間の使い方や心の持ち方が変わってきます。
そのように言っていると、多くの方から、
 「日々の忙しさの中で、そんな時間なんてとれない!」と、よく聞きます。
しかし、そもそもそのような質問が出てくる時、私たちの中にはもうすでに、
「そのような時を持ちたくない」
という思いがあるのではないでしょうか。
神との交わりは、持ちたいという思いがあれば、いくらでも持てます。どんな工夫もできます。
 電車の中でも、トイレの中でも、どこにいても、「主よ」という呼びかけだけで、もうその場は、神との自分との聖壇となるのです。
共に祈りつつ、聖なる者へと変えられていく時を歩みましょう。



--------------------------------
幼稚園の子ども達のお祈りって、心に沁みるんですよね。
「神さま、休みしている○○ちゃんを守ってください。」って。
この子ども達のように、純粋なお祈りができるように願いたいものです。


Urakami





2011-02-04

は~やくこいっ♪

ここ数日の大雪に代わり、今日は本当に暖かい一日になりました。
屋根の雪が一気に解けはじめたようで、目を閉じていれば一日中雨が降っているような気になります。
目に見える雪は、だいぶ量が減って、教会の隣の公園の植え込みも、ひょっこり頭を出し始めました。
まだブランコや土管は埋まったままですが…

今日は暖かいと“立春”でした。
朝、お迎えに行った園児宅の近くの神社では、梅のつぼみが大きく膨らみ、上のほうでは花もちらほら咲いていました。


これだけ雪が降ると、春はまだ先かと思っていましたが、知らないうちに近くまで来ていたようです。
九頭竜川のサクラマスも解禁になりましたし、桜の花に囲まれるのもあと少しです♪


Urakami

2011-02-02

ウィーン少年合唱団来日!

今日は久しぶりに日の光りを浴をびて、心も暖かくなりました♪

ウィーン少年合唱団が、5月・6月に来日し、各地でコンサートが行われます。
福井から聞きに行くとすると大阪のザ・シンフォニーホール(5/28、29)が一番近いようです。

プログラムは、AとBがあって、Aプログラムが宗教曲の演奏のようです。
私はもちろんAプログラムに行きますっ!!(ザ・シンフォニーホールでは、28日(土)ですし)
Aプログラム、ハイドンの「天地創造」やブクステフーデの「カンターテ・ドミノ」、ブラームスの「レジナ・チェリ」と、なかなか聞かせる曲が並んでます♪

詳細はこちらをご覧ください。

新緑あふれる気持ちの良い季節に、美しい歌声を聴ける、贅沢な一日が待ち遠しいです。


Urakami

2011-02-01

【幼稚園】 2月の聖句

城之橋幼稚園 2月の聖句の紹介♪


「私たちはキリストに向かって 成長していきます。(エフェソ4:15)」

✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜

4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。


✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜✜

このエフェソの信徒への手紙は、復活したイエスさまと出会って使徒(キリスト者)となったパウロが、牢獄からエフェソの教会の人たちに書いた手紙です。

一般社会と違って、教会(キリスト教)の中では、それぞれ個人が持っている能力だけで、その人を判断しません。「あの人は~ができるからどうだ」とか、「あの人は、この人より~の点で優れているからどうだ」ということが問題にはならないんです。
 では、教会の人たちや、幼稚園の先生たちは、その人達や子ども達の何を見ているのでしょうか?
 私たちが焦点を合わせているのは、その人の「能力」ではなく、「存在」です。
 もし「能力」だけを見ているのであれば、それは城之橋幼稚園ではありませんし、本当の意味での「キリスト教保育」でもないのかもしれません。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補う合うことによってしっかりと組み合わされて、結び合わされて・・・」と、パウロは言いました。それまでパラバラだった人たちが、それぞれの「存在」を認め合って、組み合わせられていくとき、そこには大きな力が生まれ、成長してきます。
 よく、「城之橋の子ども達は、言葉遣いが丁寧だ」とか、「城之橋の子ども達は、いい子が多い」という声を聞きますが、それは何も、そういう子ども達になるように、縛りつけて「教育(調教?)」しているわけではありません。
 それぞれの「個」を結び合わせ、成長させていくのは、人それぞれがもっている「愛」です。
「能力」とは、そんな「愛」が結びついて、補い合う中で培われ、成長していくものではないでしょうか?
 子ども達だけではなく、私たち大人も、「愛」をもって人と結びつき、足らないところを補いあいながら成長していく者でありたいと願います。

2月も神さまに祝され、恵まれた時となるよう祈ります。


Urakami